4月掲載の仕事

早いもので、4月も終わり。気がつけば桜が散り、初夏の日差しになっています。今月掲載された仕事の一部をご紹介します。

新連載「キャリアの原点」

日経電子版に付随した無料サイト「NIKKEI STYLE」で、著名な方々のキャリアの原点についてインタビューするシリーズを始めました。誰を取り上げるか、は編集部と相談しながら決めています。1回のインタビューを上下に分け、毎週木曜日に更新していきます。お一人目はスタート・トゥデイ社長の前澤友作さん(記事の名前が前沢さんとなっているのは、日本経済新聞の表記スタイルです)で、二人目はテラスカイのジェイソン・D・ダニエルソンさん(タレント、厚切りジェイソンとしても活躍中です)でした。連休中の更新はありませんが、5月以降も続々、注目の方に話を伺っていく予定です。

記事のバックナンバーは以下のURLからご覧いただけます。

http://style.nikkei.com/career/DF180320167075

連載「イノベーターズ・ライフ〜経営共創基盤CEO 冨山和彦氏〜」(全18回)

こちらは「News Picks」のオリジナル企画。編集部からの依頼で、インタビューと執筆を担当しました。撮影を担当したカメラマンの竹井俊晴さんとは、以前もよく、ほかの媒体でご一緒しました。写真をご覧になっていただくとわかりますが、被写体は毎回、同じ服を着ています。限られた時間内で18回分に相当するストーリー性のあるカットを撮影するには、かなりの工夫とアイディアが必要です。仕事柄、たくさんのフリーカメラマンとご一緒しますが、毎回、<よくこんな短時間で的確に人物をとらえられるなあ>と思うことがほとんどです。カメラさえあれば誰でも簡単に写真が撮れる時代ですが、毎回、与えられた条件の中で一定のクオリティを保つ仕事をするのは、誰にでもできることではないなと痛感します。

有料会員限定ですが、無料の予告編を以下のURLでご覧いただけます。

https://newspicks.com/news/1478455?ref=user_9103

カプセルトークの報告

去る4月8日は、亡くなった黒川紀章さんの誕生日でした。黒川さんの代表作「中銀カプセルタワービル」で、それに合わせた展覧会・トークイベントが開催され、私もスピーカーとして参加してきました。遅くなりましたが、その報告をさせていただきます。

トークイベントの会場はカプセルの中。わずか10平米のワンルームですから、定員7名のこじんまりとした会です。主催者「銀座たてもの展」さんから事前に振られたお題は、「建築界の『鉄腕アトム』黒川紀章を解き明かす」というものでした。

黒川紀章と鉄腕アトム━━。何がどう関係しているのかわからないという方も、いらっしゃるでしょう。じつはこれ、まだ新進気鋭の建築家だった頃の黒川さんを取り上げた、1970年当時のある週刊誌の見出しに由来しています。

その見出しは、「女子大生がシビレる”建築界の鉄腕アトム”黒川紀章」。なにしろ、女子大生がシビレちゃうくらい、カッコよかったらしいのです。(私はむしろ、見出しの昭和的センスにシビレましたが……)

記事中には、黒川さんを評したこんなコメントもありました。

「たしかに昭和1ケタ生まれの旗手、鉄腕アトムといいたい男です。しかし、人間的にスケールと包容力があり、楽しいふんい気、人なつこさには共感を覚えますね」(万国博東芝館作業所長)

拙著『メディア・モンスター』の取材で会った多くの方々も、笑顔で黒川さんとの思い出を語っておられました。大建築家となり、大勢のスタッフを率いるようになってからはともかく、素の黒川さんは理論家である半面、思わず笑いたくなってしまうような行動をとる、愛嬌溢れる人物でもあったようです。

ところで、先の作業所長はなぜ、黒川さんを語るのに「鉄腕アトム」を引き合いに出したのでしょうか。記事を読んでも、その理由はよくわかりません。そこで、トークイベントでは私なりの推論をまじえつつ、黒川紀章と鉄腕アトムの共通点についてお話してきました。

本でも触れましたが、黒川さんのメディア・デビューは1963年の朝日新聞です。それ以前にも専門誌で記事を書いたりはしていましたから、「メジャーデビューが1963年」と言った方がいいかもしれません。

手塚治虫氏原作の『鉄腕アトム』はこの年、初の国産テレビアニメとして放映されています。その舞台は未来都市。黒川さんも、その斬新な未来ビジョンによって注目されました。

みるみるうちに両者は世界へと飛び出していきますが、その背景には、日本の高度経済成長とテレビ時代の幕開け、都市の高層化があったように思います。1963年以前、日本では、建物の高さを31メートル以下に制限することで都市の景観や環境をコントロールしていましたが、1963年の建築基準法改正以後は、従来の高さ規制から容積率による規制へと転換していきます。この転換が完了し、高さ規制が完全に撤廃されるのは1970年、大阪万博のあった年でした。

すなわち、1963年(東京オリンピックの前年)から1970年(大阪万博のあった年)という短い期間で、日本の都市は高層化し、大きな変貌を遂げていく。その間に生まれて活躍したのが建築家・黒川紀章であり、鉄腕アトムでした。

原作の公式設定によれば、鉄腕アトムの誕生日は2003年4月7日です。日付だけを見れば、黒川さんとたったの1日違い。内輪の会でしたし、黒川さんの誕生日を祝う気持ちも込めて、多少強引ではありましたが2人の「物語」がその後どのように展開していったのか、そして、そこからどんな「未来の種」を見出すことができるのかについて、私の考えをほんの少しだけ披露してきました。おつきあいいただいた方々には、改めて御礼を申し上げます。

さて、「中銀カプセルタワービル」と言えば。

ビルの設計に関与した黒川紀章建築都市設計事務所の元スタッフに、熊本県在住の建築家、上田憲二郎さんがいます。当時チーフの阿部暢夫さんとともに、黒川さんのアイディアを形にすべく、奔走した1人です。昨秋、SUSというメーカーが主催する「メタボライジング」をテーマとした住居コンペで中銀カプセルタワービルの更新案を提案し、佳作を受賞されています。

昨日、熊本日日新聞のウェブサイトでたまたま、その上田さんを紹介する記事を見つけました。「わたしを語る」という連載シリーズです。(全39回)

上田さんがこのシリーズで取り上げられたのは、宇城市の三角西港が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つとして世界文化遺産に登録されたことがきっかけのよう。取材で熊本にお邪魔した際には、車で現地を案内いただきながら、黒川さんや建築についての話をいろいろと伺いました。地震の報道があって以来、ご無事だろうかと心配していましたが、記事を読んだのをきっかけに電話をしてみたところ、元気な声を聞くことができて安心しました。

熊本は今なお余震が続いているとのこと。1日も早い地震の収束と、多くの方のご無事を祈ります。

*写真は銀座たてもの展さんがイベントのために準備してくださった、黒川さんの誕生日を祝うケーキです。

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建築家ザハ・ハディドの死

建築家のザハ・ハディド氏が3月31日、急逝しました。享年65歳でした。

2004年に、女性として初めて建築界のノーベル賞にあたる「プリツカー賞」を受賞していた彼女は、この2月、今度は女性として初めて、優れた建築家に贈られる英国のロイヤルゴールドメダルも受賞していました。受賞に際して、彼女は次のような言葉を残しています。

「ここまで来るのは容易なことではなく、時に、重圧と闘った」

BBCニュースは、彼女を「Dame Zaha Hadid(dameは大英帝国勲位を受勲した女性の尊称)」と呼んでいます。イラク・バグダット生まれの彼女は英国籍を持ち、ロンドンを拠点として活動しながらも、「数少ないアラブ人建築家」としても注目を集めていました。このことは時に、彼女と彼女の作品に対する批判を強めることにもなったようです。

賞賛と早すぎた死を惜しむ声が多いなか、ニューズウィーク日本版は早速、「独裁者のお気に入りだったザハ・ハディド」と題した記事をネット上にアップしています。英語版の見出しは「Zaha Hadid’s Complex Legacy (ザハ・ハディドが遺した複雑なもの)」となっていますから、だいぶ、ニュアンスが違います。2つの見出しの違いは、「ザハ・ハディド」という名前を聞いた時に何を思い浮かべるかという、英語圏と日本語圏の読者の認識の違いを如実に反映していると思います。

建築のプロジェクトは始まりから終わりまでが長く、すべてを見届けて亡くなることのできる巨匠は稀です。ガウディもル・コルビュジェもルイス・カーンも、畳の上では死ねませんでした。ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれ、コルビュジェは溺れるようにして海で亡くなり、ルイス・カーンはペンシルバニア駅のトイレで心臓発作を起こし、一時は身元不明の死体として安置所に放置されていました。ジェット機に乗って世界中を飛び回ることを運命づけられた巨匠たちは、本質的に「旅人」です。

人間の「死」は、その「生」を反映します。ザハ・ハディッド氏の死とそのタイミングは、彼女のどのような生き方を映し出していたのだろうか、と考えてしまいます。

ザハ・ハディドの名を聞いて多くの日本人が思い浮かべるのは、先の新国立競技場問題でしょう。計画は白紙撤回され、コンペはやり直しとなり、新たに隈研吾氏と大成建設のチームがプロジェクトを担当することになりました。

一連の騒動を招いた最大の原因は、プロジェクトの目的が不明確だった点にあると思っています。「今、なぜ、東京でオリンピックを開催するのか」。そのことに、今なお納得できていない国民は多く、「何か大きな問題でも起こればいい」という潜在意識が引き起こした騒動であるように、私には思えてなりません。

目的が明確であれば、それを実現するためのアイディアなどいくらでも生まれてくるはずです。しかし、今回はなぜか、関係者同士の内輪もめと問題点ばかりが浮かび上がってきます。情報発信にも混乱が見られました。

最大の教訓は、「デマを鎮圧するのは、デマを広めるよりも難しい」ということでした。とりわけ、大衆に開かれていないジャンルの場合は。

これは私自身が悩んでいることでもありますが、情報社会において、何を開き、何を閉じるのか、の判断は重要です。すべてをどこまでもわかりやすく解説すればいいかというと、これも違うように思います。どんなジャンルにも、そこにどっぷり浸かった人にしかわからない世界は存在しますし、肝心の部分は言葉では説明しきれないものであったりもします。本当のジャーナリストとは、知りえたことをすべて知らしめようとする人ではなく、「何を書いてはいけないか」を深く理解している人だ、と思っています。

西欧において、「啓蒙」とは「光」だそうです。闇の中にいる大衆を導こうとする光。しかし、闇の中で生きていたい人たちにまで光を持ち込もうとするのは、単なる「おせっかい」や「ありがた迷惑」かもしれません。

情報が瞬時に流れ、その事実確認さえ難しい状況の中で、知ったことを右から左へ流していけば、それはたちまち「デマゴーグ」の温床となります。ジャーナリズムが担うべき仕事は、「情報の開示」から「検証」へと移りつつあります。そういう意味で、私自身にも反省すべき点は多々あります。

新国立競技場問題に関連し、私は以前、ダイヤモンド・オンラインに「新国立競技場でも批判の的、建築家に罪はあるか」という原稿を寄せました。最初は単にドキュメンタリー映画『だれも知らない建築家のはなし』の監督、石山友美さんのインタビューを書くつもりでしたので、若干、論点が不明瞭になってしまったかな、と反省はしています。しかし、そこで示した基本的な考え方は、今もまったく変わってはいません。

JSC(日本スポーツ振興センター)のサイトには当時、こんなメッセージが載っていました。

”私たちは、新しい国立競技場のデザイン・コンクールの実施を世界に向けて発表した。そのプロセスには、市民誰もが参加できるようにしたい。専門家と一緒に、ほんとに、みんなでつくりあげていく。「建物」ではなく「コミュニケーション」。そう。まるで、日本中を巻き込む「祝祭」のように”

掲げられた「目的」そのものは、悪くなかったと思います。にもかかわらず、その目的が十分に共有されておらず、それを実現するための方法論にも乏しく、途中から、目的がまったく見えなくなってしまった。

新国立競技場のようなプロジェクトに、経済的・技術的困難はつきものでしょう。混乱を収束させるには、必ず、立ち返る「原点」が必要となります。その原点となるのが、「今、なぜ、なんのために施設を建設するのか」という目的です。

日本人はこれまで、そのような目的を「チーム力」で達成してきたかのように思われているかも知れませんが、実際は、個人の力が大きかったと思います。強い意思を持った個人が、困難に遭遇しても容易に諦めず、状況を的確に判断し、柔軟に行動し、問題を1つひとつクリアしてきた。そうした個人の力量を育む土壌と個人の裁量を認める風土がこの国にあったからこそ、結果的にチーム力を発揮できていたかのように見えていたにすぎません。

もしも、今の日本でオリンピックを開催し、そのための競技場を作るとしたら、そして、その監修者にイラク出身の英国人建築家であるザハ・ハディド氏を選んだのだとしたら、その本質的な意味はどこにあったのでしょうか?

日本企業の多くは現在、組織の多様化に取り組んでいます。もっとも必要とされているのは、「女性」と「外国人」の力です。前者は現場のリーダーシップ、後者は取締役会などのボードメンバーに必要だ、と言われています。重要な施設の設計を、建築家に「監修者」という立場で依頼することの是非はさておき、仮に、ザハ・ハディド氏を含むチームがプロジェクトを手がけていたとしたら、その意味は、以下のような点にあったと思います。

チームメンバーの中に、たとえ、女性や外国人が含まれていたとしても、日本人は同じように個々の能力を発揮し、団結し、感動的な形を作り上げることができると内外に示すこと。そして、我々は対立ではなく、平和を希求している国民であることを明確なメッセージとして伝えることも、可能だったかもしれません。

一連の騒動で、私たちは半永久的にそのチャンスを失いました。

人もモノもカネもボーダレスに動く今の時代には、「日本」や「東京」という枠を超え、世界中の良心ある人々が共感できるような目的を構築していくことが求められています。重要なのは、最終的な「形」ではなく、それを実現していくまでの「プロセス」であったはず。

建築家として当然の抵抗を続けたザハ・ハディド氏が失ったものと、私たちが失ったもの。はたして、どちらが大きかったのでしょうか。

*「ザハ・ハディッド」を「ザハ・ハディド」と表記し直しました。

ダイバーシティとは何か

昨年8月から日経BIZアカデミーで連載していた、「ダイバーシティに挑む」が終了しました。全30回、15人の方々をインタビューしています。今シリーズは、写真もほぼ自分で撮りました。

インタビューした方々の、年齢も性別も国籍も、取り組んでいるお仕事の内容もバラバラです。日本、アメリカ、中国、インド、カンボジア、ベトナム、フィンランドなどそれぞれの方々の越境体験も伺っていますので、インタビューしながら、世界一周したような気分にもなりました。

「ダイバーシティ=女性活躍」と捉えられがちですが、私にとっては、このラインナップそのものがダイバーシティでした。同じキーワードでも、これだけ多様な切り口と考え方があると感じていただけたら幸いです。

シリーズを通じて、私自身が考えたダイバーシティの本質は、めりあ・カルッピネンさんの次のような言葉に集約されています。

“重要なのは、心の内側から始めることです。外見によるくくりや属性だけでダイバーシティを捉えてしまうと、ステレオタイプに陥ってしまう。「日本は今のままでも十分な多様性を持っているんだ」と胸を張って言えることが、今求められているダイバーシティの第一歩なんじゃないでしょうか”

さて、4月1日をもって日経BIZアカデミーのサイトは更新を停止し、NIKKEI STYLEの「出世ナビ」に移行します。先のめりあさんの言葉を踏まえた上で、もう一度、最初からインタビューを読み直していただけたら、企画の主旨をより理解していただけるのではないかと思っています。

過去の記事がいつまでサイト上にアップされるかわかりませんが、「ダイバーシティに挑む」の全ラインナップは、現在、以下のURLでご覧いただけます。全文を読むには日経ID(登録無料)が必要です。

http://bizacademy.nikkei.co.jp/practical-skill/daibashithi/

連載終了にあたり、取材に応じてくださった方々のお名前をここに記し、改めて、ご協力に感謝したいと思います。(掲載順、肩書きは掲載時)

グーグル APEC ダイバーシティビジネスパートナー 山地由里氏

カルビー上級執行役員 鎌田由美子氏

BCGシニア・パートナー&マネージング・ディレクター 津坂美樹氏

JEN理事・事務局長 木山啓子氏

日本IBM取締役副社長執行役員 グローバル・テクノロジー・サービス事業本部長 下野雅承氏

ダイキン工業人事本部 ダイバーシティ推進グループ女性活躍推進担当部長 池田久美子氏

IBM大中華圏グループ(GCG)マーケティング、コミュニケーションズ&シチズンシップ、
デジタル、ユニバーシティ・リレーションズ、トランスフォーメーション担当バイスプレジデント ギル・ゾウ氏

日立製作所 人財統括本部人事勤労本部長兼 ダイバーシティ推進センタ長 田宮直彦氏

Waris共同創業者 田中美和氏

グランマ社長 本村拓人氏

デロイト トーマツ コンサルティング執行役員 田瀬和夫氏

ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン代表 志村真介氏

クロスフィールズ副代表 松島由佳氏

アサヒビール国際部 レ ティ タン タオ氏

フィンランドセンター所長  めりあ・カルッピネン氏

ありがとうございました。