映画『人生フルーツ』

『人生フルーツ』という映画を見た。愛知県春日井市にある高蔵寺ニュータウンで、雑木林に囲まれた平屋に住む一人の建築家、津端修一(つばた・しゅういち)さんとその妻、英子(ひでこ)さんの日常を描いたドキュメンタリーだ。

この映画の監督、伏原健之氏とは薄い縁があった。本を書く原動力になってくれた取材先の息子さんで、いつか、亡くなったお父様の話を一緒にしてみたいと思っていた。無精者が災いしてなかなかその機会を持てずにいたのだが、ふだんは名古屋でテレビの仕事をしている伏原さんが舞台挨拶で東京に来ると知り、ともかく映画館へ出かけてみようと思った。

受付開始の時刻は午前10時10分。人気の映画だと聞いていたので、30分前には着いていたほうがいいだろうと思い、午前9時半から窓口に並んだ。似たような考えのお客さんがぽつり、ぽつりとやってきて、あっという間に10人くらいの列になった。

チケットを買い館内へ。91分間、物語に没頭した。撮影に入るまで説得に時間を要したであろうことや、相当な時間、カメラを回し、二人に寄り添い続けたのであろうことはすぐにわかった。途中、ごく自然と涙がこぼれた。

物語を構成するのは「特異性」と「普遍性」だと思っている。この場合、夫の修一さんが建築家であることにフォーカスすると「特異性」が強くなり、「夫婦の暮らし」にフォーカスすると「普遍性」が強くなる。『人生フルーツ』というタイトルに決めたことで、作品がより普遍的な物語として伝わっていくことになったのだと思う。日本住宅公団で修一さんの後輩だったという男性の証言が、作品に深みを与えてくれている。

津端家にある様々な道具も、ところどころで効果的に使用されている。物語の縦軸を意図して挿入されたという「小鳥の水浴場」を見た時、専門家にはお叱りを受けるかもしれないが、あれこそが”建築”なのではないかと思った。

形あるものはいつか壊れる。小鳥たちが戯れた水盤もまた、台風で割れてしまう。物語の終盤、津端夫妻の娘さんたちがつぎはぎして直した水盤が、アップで映るシーンがある。修一さんは亡くなったが、水盤は残った。単なる「物質」ではなく、思い出のかけらを含む記憶の一部になっていたということだ。

伏原さんにサインをもらった。ほんの少しだが話ができた。私としては、ありあまる言葉をいただいたと思っている。ほっと胸をなでおろした半面、作品を通じて、自分自身に足りないものも突きつけられたような気がしている。

次にノンフィクションを書く時は、『人生フルーツ』を心に留めて書こうと思った。